戦前に撮られた映画「風の又三郎」の強い印象がありました。冒頭のウサギを飼っているシーンにはじまり、どれもこれもスクリーン空間に入って行ける心持ちでした。
わたしの場合、いまでも宮沢賢治の童話や詩・書簡などにおもいをめぐらす度に、戦前の映画映像の影響と空気感があると思います。
岩手県花巻の豊沢川の【さいかち淵】には樹齢数百年と言われるさいかちの巨樹が数本、北側の崖下に並び立ち、辺りいっぱいに枝を広げていたと言う。
もうありません。過去のお話です。現在の整地された場所に日がな1日【さいかち淵】、【まごい淵】に求めても、当時の気配はなかなか現れてはくれませんでした。風がわたる音や川の水の音に
身をまかせる次第。
さいかち『皀莢(そうきょう』。
山野、河原に自生し、茎・枝にトゲがある。高さ10メートル。葉は複葉、初夏に緑黄色の小花をつける。若芽は食用に、莢、豆果は薬用、古くは小袋等に入れて石鹸の代用にした。
丸の内線のお茶の水駅で降りる。地上に出る。JR御茶ノ水駅に向かう。駅から5分ちょっとでめざす【サイカチの樹】にあえる。
佐藤
私の所属している独立美術協会のメンバーと一緒に展覧会をさせていただくことになりました。
大作(F130号・S100号)を2点出品します。
展示の詳細は、下記の通りです。
「究展」
2016年7月4日(月) – 7月10日(日)
10:00 – 18:30 (初日は13:00から、最終日は17:00まで)
東京銀座画廊・美術館
中央区銀座2-7-18 銀座貿易ビル 8F
☎03-3564-1644
お近くにお越しの際は、是非お立ち寄りください。
蔵野
ここ最近、上野の美術館では展覧会が盛況だった。
若冲、黒田、カラヴァッジオと会期が重なり、
近い場所で3つもあるとついつい梯子をしたくなるものだが
なかなかそうも行かず(学生時代は体力に任せてよくやったが…)
会期中は毎週のように上野に通う羽目になってしまった。
若冲は言わずもがなの混乱ぶり。
展示内容も筆舌に尽くし難いほどの圧倒的なものばかりであったが、
残り2つの展覧会も色々と考えさせられる機会となった。
黒田清輝とカラヴァッジオ。
時代も画風もまったく異なるこの2人の作品を見ながら、
絵画において「リアリティ」とは一体何なのだろうと、ふと思う。
カラヴァッジオと言えば、
それまでは全方向的な光でしか描かれてこなかった絵画から
光源を一つに絞り、強烈な一方向だけの光線を取り入れて
聖書に書かれた人物やドラマティックな場面が
等身大で描かれていて
あたかも目の前で繰り広げられているように描き出した。
当時の人たちにとってそれは、書物でしか知らない人々を
まさに現実のことのようにリアルに感じられたのだろう。
カラヴァッジェスキと呼ばれる多くの追従者がヨーロッパ各地に広がり
いかに彼の手法が驚きと興奮をもって受け入れられたのかがよくわかる。
一方、黒田はフランスで印象派の技法を学ぶ。
色彩豊かに描かれた風景画や人物画は
カラヴァッジオとは違ったリアリティを描き出している。
それは自然の一瞬の輝きであり、空気感であり、
あるいは描かれた人物の人柄であったりする。
描かれているのは常に、その時その時で画家が感じたリアリティである。
方法は違えど、どちらもリアルを“感じる”作品である。
リアルに“見える”ものとは一線を画す。
ところが最近の世の中を見渡してみると
高画質テレビやCGゲームなど
『本物そっくりに見える』が何かにつけて宣伝され、
それが絵画においても、飛び出すような3D絵画や写真のような絵
(そのすべてを否定するわけではありません!)が
「リアルだ。リアルだ。」ともてはやされているのは
こうした風潮の影響なのかもしれない。
絵画においてリアリティとは表現する人と鑑賞する人がつながって、
初めて発生するものだと思う。
たとえ写真のように描かれていなくても、伝わればリアルなのだ。
作品と鑑賞者の中間に、リアリティは存在する。
2つ展覧会を見て、そんなことをつらつらと考えた。
孫崎