「塩レモン」 F4 油彩・キャンバス
今年の風邪はしつこいという。
毎年風邪はしつこい様に感じる。
一度治ったと思っていたら、また悪化してしまった。
風邪の日には、用事や仕事がなければ、じっと寝ているのが一番良いように思う。
溜まっている仕事はあったけれど、後回しにして計4日間寝てすごしてしまった。
寝ている間は、読みたかったミステリー小説などを横になりながら読んで、水を大量に飲んで、眠くなったら寝るという、贅沢な時間の使い方をしていた。
休むだけ休んで、どうにか元の調子を取り戻しつつある。
教室の忘年会も途中で帰ってしまい、頼んでいたモデルさんを描く予定も延期してしまった。
ほとんど何もしなくて、ここ数日間無駄にしてしまったような気がする。
早く出かけたい。
蔵野
円屋根をぼんやり見ることがあります。池袋駅から荻窪行きの丸ノ内線電車に乗り淡路町に向かいます。だいたい、座席で全体やり過ごす事が多いですが。
茗荷谷駅からの地上の風景が鮮やかに私に入って来てくれたことがありました。そんなこんなの経験で、地上の風景について、想いを巡らす機会になっています。
茗荷谷駅を過ぎて、地下鉄車庫に車輌が頭隠して尻隠さず図があらわれます。後楽園を囲む樹々の連なる緑色、ほどなく一瞬ですが東京ドームの銀灰色の円屋根があらわれます。この円屋根は車窓から覗くほんの数秒ではありますが、そのかたちや質に私の眼(まなこ)はぼんやりと投げ飛ばしています。いったい何を見ているのでしょう。
朝霧にけむる北海道南部・二山高原に走る馬群のひづめの跡、モナドを在りかを教えてくれた岩手県の種山ケ原の空、漬け物の蓋に乗っかった石のたたずまい、そして、渡島当別町・修道院の紫陽花の葉に隠れたデンデン虫の背の円屋根が浮かんで消えました。私の中の五感がひらいて生きづいていることを知りました。
画家モディリアーニ(1884~1920)
の描いた100年前の匂い立つような裸婦の絵を、肌の粘りつくような肌理(きめ)を、東京の展覧会場で私は観ました。私はいつどこで観たのか定かではありませんが、昨日のことのように覚えています。彼は35歳で世を去りました。最後のことばは「なつかしいイタリア」というものでした。
彼は人物が石の肌理をうかがうように見えていたと思います。彫刻で感銘を受けたイタリア・ナポリに始まり、そして、フィレンツェの美術アカデミー入学します。さらにヴェネツィアの美術研究所に入学もしています。22歳の時にパリに赴きました。パリに出ても彫刻にこだわっていました。モディリアーニとってはフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィーオーレ聖堂の円蓋(クーポラ)もヴェネツィアの大運河のサルーテ教会の円屋根も空気のように親しかったにちがいありません。そして、パリは何処からも望むことが出来る丘にたつサクレ・クーレ寺院円屋根です。彼の赴くところに円屋根がありました。
円屋根の話から際限なく横路にそれていくばかりです。地球人生は見え隠れする地上の風景の遠近の景の中に、強くあらわれて来る感じがしてなりません。見ることは困ったものですネ。大したものですネ。今一度、私の中で見ることを整理する問題として、しばらくの間ぼうーと受けとめてみたいと考えています。やはり、詰めて進んでみたい「かたちびと」にあいたい心持ちがしています。
佐藤