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出会うこと巡ること・・・「5月の空」(佐藤)

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目の前の空や雲や月を相変わらずぼんやり眺めています。田舎は北海道です。生まれ育ったのが海鳴りが聞こえるところでしたから、小さい時分寝床に入っても、世界はみんな大きな船底にあるように感じることがあって、ことのほか海の色がなくなる夜は怖いイメージがしばらくありました。

近所の人が海でなくなった事もあると思います。夜空の星や風はどこまでも怖い印象がついてまわりました。怖がりです。

明るい空や雲やお月さんとは、ひとりでも会話が出来るように側に置いておきたいと思ったものです。

絵描きさんの宮崎進さんには「13の言葉」というのがあります。そのひとつの「5月の空」という、絵ではなくて言葉ですが、宮崎氏の空に側においた想いが沁みて来ました。生きざまに及んで深くあるんだと思いました。購入しました。自分の制作部屋の出入り戸に上に置いて居りました。それから2014年の私事の引越しがありました。それから今まで宮崎氏の「5月の空」を見ることがありません、引っ越した時から整理のつかない部屋で取り出せないでおります。

2002年横浜美術館で開催されたーよろこびの歌を唄いたいー宮崎進展でみた「沈黙」という造形作品に強く魅せられてしまいました。この小ぶりの作品が、なぜこんなにも周り空間をも支配してしまうのか?その存在感の強さに驚きました。その造形強さを確かめ知りたくてまた美術館へ、空のようにどこまでも分からない充足感を求めて、後日再びうかがいました。

また、その展示会場の別室には、宮崎進さんがシベリア抑留の場所を求めるルポ映像が流れていました。宮崎氏個人の、人生のすり合わせをしているように思えますが、わたしには、むしろ、なぜ絵を描くのか創るのかをボンヤリ伝えてくれているように感じました。有り難いものでした。
この記憶映像としてもとても貴重なものでしょう。

その映像を2017年秋に再び見ることが出来ました。多摩美術大学美術館ー宮崎進すべてが沁みる大地ー。

直接、宮崎氏に会ってみたいなとおもいました。

今年5月でしょうか?絵の話題流れから、教室代表の蔵野先生に「宮崎進先生にアトリエに行ってお会いしたい」とわたしの本音を振ってしまいました。

6月、蔵野先生からお電話をいただきました。宮崎進氏が亡くなったというお知らせでした。

(次回に続きます)

佐藤

写真は今年のカリンの実がすずなりになって5月の空に立ち上がって行く様相。

佐藤比呂二の画像
佐藤比呂二 2018/07/17 21:24

出会うこと巡ること・・・その8『タイマグラ』(佐藤)

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3月21日の雨雪が降ってから、雨らしい雨をさっぱり見ていません。
コブシの花があっという間に終わりました。去年は4月10日頃まで咲きほこっていたのに。桜も八重ザクラとシダレ桜になってしまいました。

その代わりというのも変ですが、花粉が頑張っています。ぼくの顔の真ん中の白いハナ袋は離すことが出来ずお代わりできません。

国立西洋美術館で現在「プラド美術館展」が開催中です。ベラスケスという絵描きさんの視線の先とと言うのか地平と言っていいのか、彼の想像力が彼自身を動かしていると思いました。“力”は大事と思いました。2月の空いている時期に行ったので静かに鑑賞できました。対面したおもいです。

清宮質文(せいみや質文)さんの生誕100年展も見ることが出来ました。
鎌倉の時も空いていましたが、今回の水戸/茨城近代美術館もじっくりと見させていただきました。清宮質文さんの遠い海、遠い空、寄り添う孤独にふたたびひたりたいと思ったのかもしれません。上手いこと言えませんが、ベラスケスを同様にここでも絵描きさんにとって「動く力、動かす力」はとても大事だよと現在形でわたしにしめしてくれました。

「『タイマグラ』というのは岩手の森の奥のオク」という意味です。2018年、野球の大谷翔平という若者がアメリカ大リーグに挑戦します。彼は岩手/水沢市出身です。

『タイマグラ』に咲くコブシの花で豊作を占うこともあったといいます。『岩手』に通ったせいでしょうか。わたしの中では、コブシの花はいつしか『岩手』と結びつく感じがしています、やはり春の花です、挑戦の花です。嬉しくなっています。

写真は和紙原料になる「ミツマタ」の花です。入間市駅/向陽橋の入り口/2018年春の訪れを教えてくれます。

佐藤

佐藤比呂二の画像
佐藤比呂二 2018/04/10 22:47

出会うこと巡ること・・・受け取るメッセージ(佐藤)

2017年の暮れ。
12月27日水曜日が神田絵画教室の年締めの授業でした。
この日はいつもより早く家を出ました。
丸ノ内線御茶ノ水駅で降りて、『サイカチの樹』を目指しました。近づいて触れました。
今年も無事過ごせたことを感謝しました。

そこから、明大通りに出て『小栗上野介住居』ところを見上げました。
「小栗さま!この空が今の日本ですよ。色々あるでしょうが見守ってくださいネ!」私は頭を下げました。

さらにそこから少し歩けば、『虔十書林』です。
私以外誰も居ません。
そのお店のご主人から宮澤清六編『国訳妙法蓮華経』を見せていただきました。
ご主人のような手馴れた扱いができません。それでも「(直接)触って触れてもいいですか?」とお願いしました。

あたたかい紅い表紙をしばらく眺めたままです。
初めて触れました、めくれば和紙の柔らかな感触が波のように襲って来ます。
今、確かに自分の素手の中にあるのは単なる稀覯本では決してありません。
宮澤賢治の遺言『国訳妙法蓮華経』でしたから・・・。

言葉が出てきません。
中を見たはずなのに覚えていません。
かろうじて宮澤清六さんの名前や住所を繰り返し見やりました。
「稗貫郡花巻町大字川口大一二地割字川口町・・・」有り難いことでした。
ご主人は私の様子をただただ見守ってくれました。

その脚で、虔十書林から戻り信号渡ること約150メートル、わたしは駿河台南甲賀町『八幡館』跡地を巡りました。
「賢治さんまた来たよ」と声かけました。

宮沢賢治は1933年9月21日に亡くなっています。
その時の遺言が先ほどの『国訳妙法蓮華経』です。
賢治はなくなる二年前の1931年9月20日に上京しました。
賢治は21日、高熱の中にありました。
八幡館備えつけの用箋使用で家族に宛てた遺書をしたためています。
熱がさがらず死を覚悟したと思います。

この一生の間どんな子供も受けないやうな厚いご恩をいただきながら、いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりました。
今生で万分一もつひにお返しできませんでした。
ご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。

どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしてください。
そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。

九月二十一日
父上様 賢治
母上様

賢治はなお兄弟へもしたためました。

たうたう一生何ひとつお役に立たずご心配ご迷惑ばかり掛けてしまひました。どうかこの我侭者をお赦しください。

清六様 賢治
しげ様
主計様
くに様

わたしの脚は淡路町の元神田絵画教室裏のお稲荷さんに向かいました。
神田絵画教室の無事やさらなるご繁盛をご祈念しました。お賽銭100円玉、50円玉、10円玉、5円玉、1円玉でした。

教室を年締めしてから、自宅に着いたのは23時45分でした。
自宅ポストには一冊の本が送り届けられてありました。
岩田シゲさんの回想録『屋根の上が好きな兄と私』というものです。
賢治と5歳離れた妹シゲさんの回想録がこの平成時代の暮れに現れでたのは奇跡だと思いました。

有り難いことこのうえない日常の重層でしょうか?感謝です。

わたしたち日常そのものが絵画層のレイアーに似て、過去現在未来を彩るつかさどる強い関係を意識したものに、見えてきます。
日々生活に追われて見えずらいですが・・・、自然は確かなメッセージを送ってくれていると感じるこの頃です。
「描くべし描くべし」と青い風が吹きわたっているのです。

佐藤

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佐藤比呂二の画像
佐藤比呂二 2018/02/12 13:22
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