ぼんやり・・・その8(神田の鳥鍋) (佐藤)
蔵野先生から声が掛かった。「写真撮るにはいい時間ではないですか」。有り難い。はっ!忘れるとこだった。わたしは早速、シャッターボタンを押した。
10月17日(月曜日)。夜7時頃、明治創業の神田の鳥鍋の「ぼたん」のあかりはもうすでに灯っている。この時間帯しかもこの場所から撮れたことに、わたしはやはり有り難いもんだなと思う。
この日、神田絵画教室は引っ越しがあった。引っ越し前の教室からベランダごしに見る風景もこの日が最後になる。路地を隔てた向かいの木造造りの建物が明治から続く鳥鍋の料理屋さんの「ぼたん」。絵画教室は三階にあったので、ベランダに出た時には窓越しに畳部屋の有り様が見えたし、時には宴会によくある嬌声も聞こえてきたので、わたしは明治から続く風情も頼もしく感じているのかもしれない、むしろ、ガンバレというかほのぼのとした気分で見ていた。特にぼんぼりが燈るような風情を頑固に守って来たことに「明治ガンバレ!」とエールをおくるものでした。そして、この日、瓦屋根と灯りとも見慣れたころに出会いがあり別れがありと感じ入る次第でした。
今年、平成28年(2016年)、朝日新聞に100年前の「吾輩は猫である」が復刻掲載されました。
詳しくは「吾輩は猫である」が雑誌「ホトトギス」に連載され大評判をとったのは明治37年(1904年)の事。このことで小説家・夏目漱石が誕生したのである。
また、明治37年(1904年)という年は日露戦争(1904年2月~1905年)がはじまった年でもある。この猫の目は何を見ていたのだろうか?
明治38年千駄木で正月を迎える。1月4日の午後。夏目漱石は寺田寅彦のふたりは高浜虚子を訪ねた。そこに寒川鼠骨がいたので、四人で本郷座に「金色夜叉」を観に行くが満員で入れない。
彼等は仕方なく神田の鳥鍋「ぼたん」へ流れる。
現在はスズメ一羽も猫一匹も見かけない神田須田町ですが、2年前には二つ目中心の「神田連雀亭」という寄席が出来た。これからも充実した気分を見せて行ってほしいと思う。
移転先の神田絵画教室はJR神田駅西口より徒歩2分とかからない場所に代表が定め動いてくれた。スタッフがいうのも気が引けるがほんとうに有り難いと思う。この環境、この近さ。この絵画教室からアプローチする人たちに出会いいつも刺激をもらっている。ここに来てくれるひとが居る。自分の描く世界に心を寄せているのをみて、やっぱりいいなと思う。夢を紡ぎ、自分の世界を謳っていく人たちがいる。みんなからエネルギーをもらい一時の刹那の感情にも新鮮に震えていたいと思っている。
佐藤